ブルキナファソでは、自動車はまだまだぜいたく品。庶民の間では、やっと、インドネシア製や中国製の原付バイクが普及し始めてきたところです。村々の移動手段の多くは「徒歩」と「自転車」
この自転車。最近は日本の中古自転車がガーナから輸入されるようになってきましたが、新品は中国製のものが大多数。私も買いましたが、サドルは壊れる、ペダルははずれる、車体はゆがむ・・・と、結構さんざんな目にあい、最終的には日本製の中古自転車を買いました。
ところで、いつもとっても感心するのが、子どもが自転車に乗っている姿です。足もつかないのに大人用の自転車を器用に乗りこなす様は、なかなかのバランス感覚です。
どんなのかというと・・・
この男の子は少々大きいですが、もっと小さな子も乗っていてびっくりします。日本だと「危ない」と止められるでしょうね。車が少ないから可能なのかもしれません。
本人曰く「危ないから、自転車に乗るときには靴を脱ぐんだ」そうです。
お父さん曰く「子供用の自転車を奮発して買ってあげたのに、全く乗らない」のだそう。
大人のまねをしたい年頃なんですね~
でも、危ないから「よい子」のみなさんはまねしないでね。
2010年11月4日木曜日
雨季
7月-8月の渡航、そして9月-10月の渡航、どちらも雨季でした。
雨季は緑が濃くなって、なんだか土地が生き生きしているようです。畑もなんだか元気です。
私たちが活動しているバンフォラ市は、サトウキビのプランテーションがあります。そこもあおあお~
象さんも思わずふらふら~
いえいえ、象さんはめずらしいのです。アフリカでも西アフリカは、野生の大型動物は少ないのですが、かばと象は、たまに見ることができます。(ちなみに 、バンフォラ市近くでは、30頭くらいの群れが移動していて、問題となっていました。象さん、近づくとキケンなのです。)
知っていたけど、雨季に見るたびにどうしても考え込んでしまうのはこの光景・・・
ちらちらと見えている黒や白の物体。ビニール袋です。元々は・・・
そう、ゴミ捨て場。雨季には畑になります。
なんとなく、ごみを捨てる場所が決まっていて、雨季にはそこが畑になります。家庭ごみのほとんどが残飯や砂・土だからでしょうか。とはいえ、ごみにどんな化学物質(農薬などなど)が含まれているかわからないし、ビニール袋は根の成長を邪魔するし、見るたびに考え込んでしまうのです。ところが、みんな口を揃えて「ゴミ捨て場の下のほうの土はとても肥沃だ」と言います。いえ、そうかもしれませんが・・・
雨季にとっても困ること。それは道に大きな大きな水溜りができること。舗装道路がとても少ないので、町は至るところ、こんな感じです。
これは、まだまだましなほう。道を覆いつくすほどの水溜りがあちらこちらに出現します。
郊外の村に行くときには、これは深刻で、実際、今回は多くの村に行けませんでした。つまり、奥にある村は、雨季には車でのアクセスが不可能になります。
ア・ダンセでは、指定林と呼ばれる国有林周辺の村々の住民森林管理グループ(Groupement de gestion forestière:GGF)が作るシアバターを使っています。現在、十数か所の村を回っていますが、そのうちのいくつかの村がアクセス不可能でした。
もちろん、四駆のでっかい車で行かなければならず、乾季でも遊園地の乗り物状態です。
このときも四駆で村周りしましたが、アクセス可能な村の道でもこんな感じです
動画でどうぞ
密林ではありませんが、結構ハードです。
一番遠い村までは、バンフォラ市からでも3時間かかります。帰ってくると、あまり動いていないのに、へとへとです。か弱き日本人であることを感じます・・・
雨季は緑が濃くなって、なんだか土地が生き生きしているようです。畑もなんだか元気です。
私たちが活動しているバンフォラ市は、サトウキビのプランテーションがあります。そこもあおあお~
象さんも思わずふらふら~
道を横切った直後の象さん。 |
知っていたけど、雨季に見るたびにどうしても考え込んでしまうのはこの光景・・・
畑です。 |
そう、ゴミ捨て場。雨季には畑になります。
なんとなく、ごみを捨てる場所が決まっていて、雨季にはそこが畑になります。家庭ごみのほとんどが残飯や砂・土だからでしょうか。とはいえ、ごみにどんな化学物質(農薬などなど)が含まれているかわからないし、ビニール袋は根の成長を邪魔するし、見るたびに考え込んでしまうのです。ところが、みんな口を揃えて「ゴミ捨て場の下のほうの土はとても肥沃だ」と言います。いえ、そうかもしれませんが・・・
雨季にとっても困ること。それは道に大きな大きな水溜りができること。舗装道路がとても少ないので、町は至るところ、こんな感じです。
これは、まだまだましなほう。道を覆いつくすほどの水溜りがあちらこちらに出現します。
郊外の村に行くときには、これは深刻で、実際、今回は多くの村に行けませんでした。つまり、奥にある村は、雨季には車でのアクセスが不可能になります。
ア・ダンセでは、指定林と呼ばれる国有林周辺の村々の住民森林管理グループ(Groupement de gestion forestière:GGF)が作るシアバターを使っています。現在、十数か所の村を回っていますが、そのうちのいくつかの村がアクセス不可能でした。
もちろん、四駆のでっかい車で行かなければならず、乾季でも遊園地の乗り物状態です。
このときも四駆で村周りしましたが、アクセス可能な村の道でもこんな感じです
動画でどうぞ
密林ではありませんが、結構ハードです。
一番遠い村までは、バンフォラ市からでも3時間かかります。帰ってくると、あまり動いていないのに、へとへとです。か弱き日本人であることを感じます・・・
2010年11月3日水曜日
心よりご冥福をお祈りします。
なんだか、再開してすぐのブログで悲しいニュースなのですが・・・
最近、友人のお父様がお亡くなりになりました。私も父を数年前に亡くしたので、心が痛くなるほど、共感してしまいます。
そして、今年は私にとってとても大切な存在であったブルキナファソのおじいちゃんが二人、亡くなりました。
ひとりは、私の起業までを支え続けてくれたおじいちゃん。8月に亡くなりました。ちょうど亡くなる1-2週間前にご挨拶しにいったとき、大分体調が悪そうだったので心配していたのですが・・・私の帰国日直前のことで、お葬式に参列できなかったので、今回の渡航でご家族を訪問してきました。いつも「わたしの娘よ・・・」と呼びかけてくれる、やさしいおじいちゃんでした。
もうひとり、私が敬愛してやまない、そして、とても可愛がっていただいた伝統音楽の大御所でバラフォン奏者、マハマ・コナテさんです。愛称はママ。10月5日に亡くなりました。なんだか、不思議なご縁を感じる出会いをしたこともあり、私にとって、とてもとても特別な方でした。
ママ・コナテはFarafina(Farafina Lili)という伝統音楽 グループを創設した方で、このグループは坂本龍一さんやジョン・ハッセル、ローリングストーンズなどのアルバムにも参加した伝説的存在となっています。来日公演もありました。今でもCDを買うことができますが、彼がかかわったグループのCD(日本で入手できる可能性のあるもの)はBolomakoteとMiriyaのみ。他のものは、同じ名前の別グループとなります。ママがとってもこだわっていたので、念のため。これについては色々なストーリーがあるのですが、また、機会があれば・・・
mamaのグループ、Farafina Liliの演奏ビデオ 1
mamaのグループ、Farfina Liliの演奏ビデオ 2
向かって右のバラフォンを演奏しているのが、ママです。
私が出会ったときには既に引退されていましたが、彼の演奏は、町のどこにいても、彼が演奏していることがわかるくらいだったとか。左手がとても強かったのだそうです。でも彼が一番すごいのは、「伝統は新しく作り続けるものである」と、Farafina音楽学校を作り、多くの若者たちを育て、自らも伝統的なスタイルを守りつつ創作・演奏活動を行っていたこと。ア・ダンセの石鹸を作ってもらっているセンターの開所式の際、日本大使も来られるということで、思い切ってFarafina Liliを招聘しました。
そして、ママにも来て貰えるかどうかを打診。すると、持病のため、あまり遠くには出かけないと聞いていたのですが、なんと返事はOUI!90km離れたバンフォラ市まで来てくださったのでした。ずっと、にこにこと見守って下さっていて、とってもうれしかったのです。それはそれは特別な機会となりました。
10月5日、亡くなった日、どうも近所のミュージシャンもどきくんたちが、ファラフィナの曲を演奏しているなぁ、と思っていたのです。これは、ママのための演奏だったのですね。
ローカルTVを見ることができない環境にいた私は、しばらくママが亡くなったことを知らなくて、亡くなった翌日のニュースを見た友人がその翌日、つまり7日の夕方に「今日、埋葬だよ」と教えてくれました。既に夕方だったので、その日は行けず、8日の朝一番に向かいました。
終わっていたはずの埋葬ですが、なんと、到着したのは埋葬式の真っ最中。まるでママが待っていてくれたみたいでした。こちらでは、偉大な人はお庭に埋葬され、おうちよりも立派なお墓が建てられることがあります。ママもそのようです。祭壇はキリスト教式。私が少し驚いていると、一緒に行った友人が「ママくらいに偉大なミュージシャンは、宗教を飛び越えた存在で、何教でもいいんじゃないだろうか」と言われ、なんとなく納得しました。
まず、ご家族にご挨拶をしたのですが、ママのことを話しはじめた途端号泣してしまい、周りのグリオ(伝統的に祭祀の際などに歌や踊りを披露するグループ)のおばちゃんたちに「ママはちょっとアメリカに行ってるだけだよ」などと、歌でなぐさめ(?)られ、 家の前で繰り広げられている音楽を聴きつつ、席に座りました。あちらこちらで知っている人たちと出会い、挨拶をかわします。よく見ていると亡くなって数日たつにもかかわらず、テレビ局が取材しています。また、外国のテレビ局も来ていた様子です。グリオたちもママをたたえる歌を歌い続けています。
ママが亡くなってからというもの、ずっと音楽を演奏し続けているようで、音楽が鳴り止むことはありません。また、お酒が大好きだったママのお葬式。もちろん、ドロまたはチャパロと呼ばれる地酒も振舞われています。音楽は、各民族のグループが交代でまたはミックスして演奏しているようでした。ブルキナの多くの伝統音楽ミュージシャンが集まっていました。
今年2月にママの偉業を称える大きなイベントが開催されたときも、大勢のお客さんが来るにもかかわらず、ずっと私を隣に座らせてくれ、色々とお話してくれたのですが、そのとき繰り返して言われたのが「踊らないの?」。ママを称えるイベントには音楽がつきもの。もちろん、バラフォンと太鼓が鳴り響き、がんがん踊っています。でも、どうもプロの踊り手さんたちだったので、私は見て楽しんでいたので、その旨を伝えました。
その「踊らないの?」「踊ってきたら?」という言葉が忘れられなくて。やっぱり、生粋のアフリカン・ミュージシャンですよね。お葬式では、その言葉を思い出し、2,3曲、みんなと一緒に踊ってきました。ママのことを想いながら・・・
その夜、ママのために普段はほとんど飲まないギネスビールの小瓶を注文して、ママに捧げました。ママが大好きでいつも飲んでいたのです。
ママ。たくさんの贈り物をありがとう。ギネス、たまに飲むようにします。そのときは、一緒に愉しんでください。ブルキナファソでは伝統音楽でたくさん踊ります。そのときは、音楽と一緒にそばにいて愉しんでください。(これって私のわがまま?)
ママにもらった有形無形の大切な大切なものたち。いろんな人たちに伝えたいと思います。
最近、友人のお父様がお亡くなりになりました。私も父を数年前に亡くしたので、心が痛くなるほど、共感してしまいます。
そして、今年は私にとってとても大切な存在であったブルキナファソのおじいちゃんが二人、亡くなりました。
ひとりは、私の起業までを支え続けてくれたおじいちゃん。8月に亡くなりました。ちょうど亡くなる1-2週間前にご挨拶しにいったとき、大分体調が悪そうだったので心配していたのですが・・・私の帰国日直前のことで、お葬式に参列できなかったので、今回の渡航でご家族を訪問してきました。いつも「わたしの娘よ・・・」と呼びかけてくれる、やさしいおじいちゃんでした。
もうひとり、私が敬愛してやまない、そして、とても可愛がっていただいた伝統音楽の大御所でバラフォン奏者、マハマ・コナテさんです。愛称はママ。10月5日に亡くなりました。なんだか、不思議なご縁を感じる出会いをしたこともあり、私にとって、とてもとても特別な方でした。
ママ・コナテはFarafina(Farafina Lili)という伝統音楽 グループを創設した方で、このグループは坂本龍一さんやジョン・ハッセル、ローリングストーンズなどのアルバムにも参加した伝説的存在となっています。来日公演もありました。今でもCDを買うことができますが、彼がかかわったグループのCD(日本で入手できる可能性のあるもの)はBolomakoteとMiriyaのみ。他のものは、同じ名前の別グループとなります。ママがとってもこだわっていたので、念のため。これについては色々なストーリーがあるのですが、また、機会があれば・・・
mamaのグループ、Farafina Liliの演奏ビデオ 1
mamaのグループ、Farfina Liliの演奏ビデオ 2
向かって右のバラフォンを演奏しているのが、ママです。
私が出会ったときには既に引退されていましたが、彼の演奏は、町のどこにいても、彼が演奏していることがわかるくらいだったとか。左手がとても強かったのだそうです。でも彼が一番すごいのは、「伝統は新しく作り続けるものである」と、Farafina音楽学校を作り、多くの若者たちを育て、自らも伝統的なスタイルを守りつつ創作・演奏活動を行っていたこと。ア・ダンセの石鹸を作ってもらっているセンターの開所式の際、日本大使も来られるということで、思い切ってFarafina Liliを招聘しました。
そして、ママにも来て貰えるかどうかを打診。すると、持病のため、あまり遠くには出かけないと聞いていたのですが、なんと返事はOUI!90km離れたバンフォラ市まで来てくださったのでした。ずっと、にこにこと見守って下さっていて、とってもうれしかったのです。それはそれは特別な機会となりました。
10月5日、亡くなった日、どうも近所のミュージシャンもどきくんたちが、ファラフィナの曲を演奏しているなぁ、と思っていたのです。これは、ママのための演奏だったのですね。
ローカルTVを見ることができない環境にいた私は、しばらくママが亡くなったことを知らなくて、亡くなった翌日のニュースを見た友人がその翌日、つまり7日の夕方に「今日、埋葬だよ」と教えてくれました。既に夕方だったので、その日は行けず、8日の朝一番に向かいました。
終わっていたはずの埋葬ですが、なんと、到着したのは埋葬式の真っ最中。まるでママが待っていてくれたみたいでした。こちらでは、偉大な人はお庭に埋葬され、おうちよりも立派なお墓が建てられることがあります。ママもそのようです。祭壇はキリスト教式。私が少し驚いていると、一緒に行った友人が「ママくらいに偉大なミュージシャンは、宗教を飛び越えた存在で、何教でもいいんじゃないだろうか」と言われ、なんとなく納得しました。
まず、ご家族にご挨拶をしたのですが、ママのことを話しはじめた途端号泣してしまい、周りのグリオ(伝統的に祭祀の際などに歌や踊りを披露するグループ)のおばちゃんたちに「ママはちょっとアメリカに行ってるだけだよ」などと、歌でなぐさめ(?)られ、 家の前で繰り広げられている音楽を聴きつつ、席に座りました。あちらこちらで知っている人たちと出会い、挨拶をかわします。よく見ていると亡くなって数日たつにもかかわらず、テレビ局が取材しています。また、外国のテレビ局も来ていた様子です。グリオたちもママをたたえる歌を歌い続けています。
ママが亡くなってからというもの、ずっと音楽を演奏し続けているようで、音楽が鳴り止むことはありません。また、お酒が大好きだったママのお葬式。もちろん、ドロまたはチャパロと呼ばれる地酒も振舞われています。音楽は、各民族のグループが交代でまたはミックスして演奏しているようでした。ブルキナの多くの伝統音楽ミュージシャンが集まっていました。
今年2月にママの偉業を称える大きなイベントが開催されたときも、大勢のお客さんが来るにもかかわらず、ずっと私を隣に座らせてくれ、色々とお話してくれたのですが、そのとき繰り返して言われたのが「踊らないの?」。ママを称えるイベントには音楽がつきもの。もちろん、バラフォンと太鼓が鳴り響き、がんがん踊っています。でも、どうもプロの踊り手さんたちだったので、私は見て楽しんでいたので、その旨を伝えました。
その「踊らないの?」「踊ってきたら?」という言葉が忘れられなくて。やっぱり、生粋のアフリカン・ミュージシャンですよね。お葬式では、その言葉を思い出し、2,3曲、みんなと一緒に踊ってきました。ママのことを想いながら・・・
その夜、ママのために普段はほとんど飲まないギネスビールの小瓶を注文して、ママに捧げました。ママが大好きでいつも飲んでいたのです。
ママ。たくさんの贈り物をありがとう。ギネス、たまに飲むようにします。そのときは、一緒に愉しんでください。ブルキナファソでは伝統音楽でたくさん踊ります。そのときは、音楽と一緒にそばにいて愉しんでください。(これって私のわがまま?)
ママの家の前で踊る人たち |
2010年11月2日火曜日
やっぱり・・・ご無沙汰しています。
ああ、やっぱりご無沙汰してしまったブログ。本当にごめんなさい。
前回のブログは・・・なんと7月!!!だめだめですね、私。
7月のブルキナへの渡航は7月から8月。シアバターの実の買い付けと、ビデオレターの撮影等々でした。
その後、帰国してなんやかやと動いているうちに、9月に再渡航。10月に帰国したばかりです。この渡航、実は今年初のファースト・シアバターを作りに行ったのですが、雨季が終わらず、結局私の滞在中にはできませんでした。気候変動の影響なのか、毎年の変動の範囲内なのか、はっきりとはわかりませんが、異常に長い雨季でした。ア・ダンセのシアバターは村での完全手作り。機械はほとんど入っていません。お日様が出ないとできないのです。お日様がなくても、シアのアーモンド部分を直火で炒ったりすると、できなくもない(実際、多くの団体が行っていると思います)のですが、品質に影響してきます。ア・ダンセのシアバターはお日様のちからで作っている分、非常に手間はかかるのですが、やさしいシアバターになっています。
で、今回は泣く泣く帰国しました。で、何をしていたかというと、現地向けのシアバター石鹸のパッケージ開発とあるプロジェクト準備です。このプロジェクトについては、おいおいご報告を。でも、仏語で協定書を作成するなど、私の人生でお初の出来事が多くて、机に向かってるか、走り回っている状態で、相変わらず、ばたばたと1ヶ月が過ぎました。
前々回、そして前回のブルキナ渡航、その間の日本滞在期間中にあったことなどを、しばらく、しっかりと書いていきたいと思います。
前回のブログは・・・なんと7月!!!だめだめですね、私。
7月のブルキナへの渡航は7月から8月。シアバターの実の買い付けと、ビデオレターの撮影等々でした。
その後、帰国してなんやかやと動いているうちに、9月に再渡航。10月に帰国したばかりです。この渡航、実は今年初のファースト・シアバターを作りに行ったのですが、雨季が終わらず、結局私の滞在中にはできませんでした。気候変動の影響なのか、毎年の変動の範囲内なのか、はっきりとはわかりませんが、異常に長い雨季でした。ア・ダンセのシアバターは村での完全手作り。機械はほとんど入っていません。お日様が出ないとできないのです。お日様がなくても、シアのアーモンド部分を直火で炒ったりすると、できなくもない(実際、多くの団体が行っていると思います)のですが、品質に影響してきます。ア・ダンセのシアバターはお日様のちからで作っている分、非常に手間はかかるのですが、やさしいシアバターになっています。
で、今回は泣く泣く帰国しました。で、何をしていたかというと、現地向けのシアバター石鹸のパッケージ開発とあるプロジェクト準備です。このプロジェクトについては、おいおいご報告を。でも、仏語で協定書を作成するなど、私の人生でお初の出来事が多くて、机に向かってるか、走り回っている状態で、相変わらず、ばたばたと1ヶ月が過ぎました。
前々回、そして前回のブルキナ渡航、その間の日本滞在期間中にあったことなどを、しばらく、しっかりと書いていきたいと思います。
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